ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

農業経営者ルポ

父が先生、畑が学校だった我々三兄弟

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第19回 1996年10月01日

  • この記事をPDFで読む
    • 無料会員
    • ゴールド
    • 雑誌購読
    • プラチナ
 土地は借地。資本金と最初の運転資金も銀行から500万円を融資してもらって工面したものだ。それも今年で返済を済ませた。英治さんにいわせると「地元では気違い扱いで」という千葉農場開設の事業に千葉の銀行が興味を示し、融資してくれたのだ。それと同時に、千葉の引き受け役になってくれた人達、千葉県旭市の農水産課も親身になって相談に乗ってくれた。千葉進出を勧めてくれた人の後ろ盾もあった。

 有限会社寺島農場の立ち上げを済まして、英治さん夫婦は山形仁戻った。まだまだ投資段階にある事業資金を得るためにも山形での野菜作りの仕事も伸ばさなければならないからだ。

 英治さんたちにとっての千葉農場の開設や農業の法人化の経験は、農業でも地域を越えた事業展開が可能であることを実感させたし、そのことが彼らに新たな自信や可能性を与えてくれた。さらに英治さんは、将来、北海道に農場を持って麦や大豆を作り、こだわりの味噌加工もやってみたいとも考えている。


親の生き様で子供は育つ


 こんな英治さんたちのチャレンジ精神はどうして育ったのか。

 寺島家の3人の兄弟にとっては、畑が学校、父が先生だったのではないか。

 寺島家の子供たちは、小学生の頃から農作業を手伝うのは当然だと思っていた。敏さんは「子供だからといって何もせずに飯を食べるなんてこと許されないと思っていました」と話す。

 両親は、朝の4時頃から仕事をし、夜中まで大根を洗っている。当然のように家の仕事を手伝っていた。中学に入ればもう一人前にパートのオバサン達を仕切っていた。

 農業高校に進んだ英治さんは、度々学校を休んで家の仕事を手伝っていた。勉強もあまり好きではなかったけど、今でもそれで良かったと思っている。学校の先生は何度も「君の本分は学校で勉強することだ」と英治さんに説教をしたが、彼は家で仕事をすることこそが農業の勉強だと確信していて、「農業高校なら、むしろ生徒を我が家に実習に来させるべきだと思った」と笑う。

 「親父はおっかなかった。腕白坊主のように夢を見て、それに向けて突っ走る。そして、いつも飲み歩いているのに絶対服従でね。でも、それで良いのだと思います」

 高校を卒業して25年。息子たちの世代になり、自分たちの夢のために邁進しながら親にもなった英治さんの実感なのではなかろうか。

関連記事

powered by weblio