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現場の事業関係者は、「耕土改善事業は春と秋の圃場のあいている時期の短期決戦である。プラウの作業能率をいささかなりとも低下させるものについては受け入れられない」と、強硬な主張である。
さて、どうするか。農業機械は単純な機構のものが生き残るのが鉄則であっても、実はこの単純化が非常に難しいのである。一方、事業の予算化が行なわれて急ぎ作れとの思し召しである。
サブソイラの後部に、大きなリングの鎖をけん引し、下層に流した土壌改良資材を混合しようとしたがこれがうまくいかない。どのように鎖の形状を変えても、である。つまり、作業速度が速ければ、土壌も液体のようなものであり、土壌の破砕量を多くすることはできても、投入した土壌改良資材は元の位置に戻ってしまうのである。
思いあぐねているうちに、れき底に土壌改良資材を散布しただけの方が、意外に心土に混和することに気づいた。「混ざりっことない」と考えていたことがそうではなかったのである。作業速度が速いとサブソイラで心土は大きく動き、瞬間的でも表面に亀裂が生ずるのである。上から散布された土壌改良資材は、その亀裂の中に入っていき、完全ではないが混和した状態になる。
ここでもサブソイラにいろんな工夫をして、心土の表面(礫底)に亀裂が多く生ずるようにした。土壌肥料関係者も一応納得してくれて、これが事業としてスタートする。昭和43年のことである。心土肥培耕プラウは十勝、網走を中心に全道に事業化され、土層・土壌改良事業では一番の大面積を消化する。
心土肥培耕は、湿性型火山性土壌に顕著な効果が認められ、乾性型火山性土壌はそれほどでないとされても、農家は躊躇しなかった。乾性型であろうと、下層土の化学性を改善して何が悪いというものである。
事実、心土肥培耕をすると、単純な心土耕と違って根が下方に伸びて作物は健全な生育をするのである。異常年に施工区とそうでない区に大きな生育差を認め、効果を高く評価した。下方に伸びた根は下層土の微生物性の改善にも役立っていると考えられる。残存の根は新しい水道であり、排水の持続性を高めることに役立った。下層土の生物耕的改善効果、これも見逃せまい。
世界の中で、プラスチック撥上板を用いているのはわが国だけである。これはなぜかといえば、畜力からトラクタに切り替わるときに、ボトムプラウは土壌の付着に苦しんだからである。最近は土壌が慣れてきて、かならずしも以前のように付着がはげしいというものではないが、シルト質の多い「犂底盤」を破るときの土壌付着は、それははげしいものであった。付着防止にありとあらゆる努力をして、最終的にはプラスチック撥土板を用いることで解決したものである。これを契機にして、ボトムプラウも全体的に高度化した。
プラスチック撥上板の発明はジョンディア社の初代が試みたスチール撥上板の発明に匹敵するものである。開拓初期、アメリカも土壌の付着に苦しんでいた。あるとき、鋸板を貼ることで土壌付着を避けることに成功した。そこから耐久性に富む近代スチールプラウへと発展させている。これが今日のアメリカ農業の基盤を作り上げたといってよい。
わが国の場合「摯底盤」を破るときにそのスチールプラウも土壌付着に苦しんだが、プラスチック撥上板で問題を一気に解決した。軽快作業できることからより深耕が可能になり、さらに完全な反転・鋤き込み性が上壌のリフレュシュを容易にするするなどして、上地の生産性を飛躍的に向上させている。まさに「プラスチックなかりせば」であり、その果たした役割は大きい。
心土肥培耕プラウが開発されて事業化したのとプラスチック撥上板が一般化したのは期せずして昭和43年のことで、以後プラウ耕高度化時代を迎える。その頃、先進的農家は土質改善に工夫をしながら徐々に深耕を試み、耕深は15cmから20cmに達していた。心土肥培耕によって深耕はさらに加速し、一般農家も深耕に取り組むようになり、各作物ともに収量はそれに比例してアップしたものである。
さて、どうするか。農業機械は単純な機構のものが生き残るのが鉄則であっても、実はこの単純化が非常に難しいのである。一方、事業の予算化が行なわれて急ぎ作れとの思し召しである。
サブソイラの後部に、大きなリングの鎖をけん引し、下層に流した土壌改良資材を混合しようとしたがこれがうまくいかない。どのように鎖の形状を変えても、である。つまり、作業速度が速ければ、土壌も液体のようなものであり、土壌の破砕量を多くすることはできても、投入した土壌改良資材は元の位置に戻ってしまうのである。
思いあぐねているうちに、れき底に土壌改良資材を散布しただけの方が、意外に心土に混和することに気づいた。「混ざりっことない」と考えていたことがそうではなかったのである。作業速度が速いとサブソイラで心土は大きく動き、瞬間的でも表面に亀裂が生ずるのである。上から散布された土壌改良資材は、その亀裂の中に入っていき、完全ではないが混和した状態になる。
ここでもサブソイラにいろんな工夫をして、心土の表面(礫底)に亀裂が多く生ずるようにした。土壌肥料関係者も一応納得してくれて、これが事業としてスタートする。昭和43年のことである。心土肥培耕プラウは十勝、網走を中心に全道に事業化され、土層・土壌改良事業では一番の大面積を消化する。
心土肥培耕は、湿性型火山性土壌に顕著な効果が認められ、乾性型火山性土壌はそれほどでないとされても、農家は躊躇しなかった。乾性型であろうと、下層土の化学性を改善して何が悪いというものである。
事実、心土肥培耕をすると、単純な心土耕と違って根が下方に伸びて作物は健全な生育をするのである。異常年に施工区とそうでない区に大きな生育差を認め、効果を高く評価した。下方に伸びた根は下層土の微生物性の改善にも役立っていると考えられる。残存の根は新しい水道であり、排水の持続性を高めることに役立った。下層土の生物耕的改善効果、これも見逃せまい。
わが国独自の「プラスチック撥土板」
世界の中で、プラスチック撥上板を用いているのはわが国だけである。これはなぜかといえば、畜力からトラクタに切り替わるときに、ボトムプラウは土壌の付着に苦しんだからである。最近は土壌が慣れてきて、かならずしも以前のように付着がはげしいというものではないが、シルト質の多い「犂底盤」を破るときの土壌付着は、それははげしいものであった。付着防止にありとあらゆる努力をして、最終的にはプラスチック撥土板を用いることで解決したものである。これを契機にして、ボトムプラウも全体的に高度化した。
プラスチック撥上板の発明はジョンディア社の初代が試みたスチール撥上板の発明に匹敵するものである。開拓初期、アメリカも土壌の付着に苦しんでいた。あるとき、鋸板を貼ることで土壌付着を避けることに成功した。そこから耐久性に富む近代スチールプラウへと発展させている。これが今日のアメリカ農業の基盤を作り上げたといってよい。
わが国の場合「摯底盤」を破るときにそのスチールプラウも土壌付着に苦しんだが、プラスチック撥上板で問題を一気に解決した。軽快作業できることからより深耕が可能になり、さらに完全な反転・鋤き込み性が上壌のリフレュシュを容易にするするなどして、上地の生産性を飛躍的に向上させている。まさに「プラスチックなかりせば」であり、その果たした役割は大きい。
心土肥培耕プラウが開発されて事業化したのとプラスチック撥上板が一般化したのは期せずして昭和43年のことで、以後プラウ耕高度化時代を迎える。その頃、先進的農家は土質改善に工夫をしながら徐々に深耕を試み、耕深は15cmから20cmに達していた。心土肥培耕によって深耕はさらに加速し、一般農家も深耕に取り組むようになり、各作物ともに収量はそれに比例してアップしたものである。
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村井信仁
農学博士
1932年福島県生まれ。55年帯広畜産大学卒。山田トンボ農機(株)、北農機(株)を経て、67年道立中央農業試験場農業機械科長、71年道立十勝農業試験場農業機械科長、85年道立中央農業試験場農業機械部長。89年(社)北海道農業機械工業会専務理事、2000年退任。現在、村井農場経営。著書に『耕うん機械と土作りの科学』など。
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