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女の視点で見る農業経営

牛乳をつかったお菓子の店を出せたらいいなあ

 浩美さんは高校を卒業して、宇都宮農業高校と同じ敷地内にあった「専攻科」へと進み、本格的に酪農を学ぶ。学校へは週に2日ほど通い、あとは自宅で「実習」を積んでいた。

 時を同じくして、昭和55年頃から渡追家では、浩美さんの曾祖父母、祖母のキノさんが相次いで病に倒れ、一家は毎日の搾乳と看病に終われる生活に。以前のように頭数を増やしたくとも手が回らず、生まれた子牛をやむなく手放したこともあった。しばらくは32~40頭という時期が続いたが、それを大きく変えたのは、浩美さんの結婚だった。勝雄さん曰く、「透が来てから、どんどん増えたんだ」


ともに酪農をやりたい夫求む


 ここで、スーパーマンのごとく登場した透さんとはいかなる人物なのか、説明しておこう。

 透さんは浩美さんと同い年で、新潟県長岡市出身。父は「石油堀り」のサラリーマンで、その3男坊である。根っから動物が好きなことと、「俺の成績で入れるのは農業高校ぐらい(本人談)」だったことから、長岡農業高校へ進む。そして3年生の夏、農場実習で訪れた北海道で「酪農学園」のことを知った。

 学校へ通うのは冬場だけ。3年で短大卒の資格が得られるという。透さんは夏場は江別の農場で働きながらこの学校へ通った。「当時は、北海道に骨を埋めるつもりでいたんだ」

 それがどうして那須へ来ることになったのか?

 4年の北海道暮らしを終えて、一時実家仁戻っていた時、宇都宮に住んでいたお兄さんのところへ遊びにきた。那須高原をドライブする途中で、地域の酪農組合の牧場の看板が目に入る。何の伝もアポイントもなく、そこを訪れた透さんは、いきなり「どこか研修できるような場所があったら、紹介してほしい」と頼んだ。するとちょうど研修生の空きのある牧場があったのだ。「3年ぐらいはいるつもりなので、その間にどこか婿に入れる牧場があったら紹介してほしい。もしなかったら、俺はまたどこかへ行くよ」というのが、その時の条件だったという。

 一方、当時家の仕事を手伝いながら、花嫁修行していた浩美さんサイドも、事あるごとに「いい婿さんになる人がいたら、ぜひ紹介してほしい」と、言っていたという。第一条件はもちろん一緒に酪農をやってくれる人」。

 そんな2人の間を、牧場に出入りしていた牛の仲買人が取り持ってくれた。出会って半年後に結婚。こうして、那須には縁もゆかりもなかった透さんが、生涯の伴侶と自分の力をフルに生かせる場所を見つけたのである。「俺の人生行き当たりばったり。たまたま那須に来て、たまたま牧場の看板見て、たまたま研修する牧場があって、たまたま浩美と出会った」

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