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江刺の稲

農業経営者の時代

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第107回 2005年01月01日

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「農業経営者」という言葉は農業界でもあたりまえに耳にするようになった。かつて「農業」と「経営者」は相容れない言葉であった。
 「農業経営者」という言葉は農業界でもあたりまえに耳にするようになった。かつて「農業」と「経営者」は相容れない言葉であった。

 1993年に本誌を創刊した頃、本誌のタイトルが差別的であるという批判を農業関係者たちから受けた。彼らは「農業は経営ではない」と言った。農業を事業として考えること自体を、自分の儲けだけを考える地域の和を乱す者の振る舞いであると怒る「先生」もいた。いわゆる「農業関係者」たちである。その時に、「あなた方が“農業問題”と言っているものの本質とは、実は僕を含めた“農業関係者問題”あるいはその失業問題ではないのか」と言った言葉に反応したのかもしれない。さらに、農水省の局長も出席した忘年会の席で、「農水省という農業界の社長に対して、あなたは会長か相談役に引退し、農業経営者たちが社長になる時代です」と農水省に引導渡しをすることを仕事にしている者だと自己紹介したら、最後にマイクを握った局長はあからさまに不快な顔をして、この席にふさわしくない人物が居ると言った。そこにいるのは農業を専門とするジャーナリストたちであった。

 「日本農業は守らなければ国際化の波に押しつぶされる」「農業は儲からないから後継者がいない」「危機に立つ日本農業」等など、当時、農業に関わる者の「日本農業を守れ」という言葉を聞く度に、僕は「嫉妬はしばしば正義の仮面をかぶって現れる」という言葉を思い出していた。農業外からなされる農業に対する辛口の批判に対して情緒的に反発するだけで、むしろ農業人が問うべき自らの精神に巣食う“豊かさの中の敗北主義”を越える勇気を持とうとしないことに僕は苛立っていた。

 日本はすでに農業国ではないのだ。農家といえどもそのほとんどの人々が、農業に依存せず暮らしを成り立たせている。日本という国ではその“幸い”あるいは“自由”が実現されているのである。さらに、豊かな先進国日本の農業であればこそ、生産においても市場においても多様な可能性を持てるのだ。農業を継ぐ者がいないなどというが、それは自らの人生にチャレンジすることなく保護に甘んじる親たちや回りに居る大人どもの姿に子供たちが幻滅しているからに過ぎない。極言すれば親に誇りがないから農業に後継者が少ないのだ。見るが良い。農家で育たなかったからこそたくさんの若者が農業を職業として選ぼうとしているではないか。僕の見てきた経験では、儲かっているか否かではなく誇りを持って農業に取り組む親のもとには高い確率で後継者は育っている。ましてや、なぜ子供は農業を継がねばならず、なぜ自分の子供が農業と言う仕事の後継者でなければならないのか。それが「お墓を守れ」と言う意味であるなら気持ちとしては理解できる。でも、そのホンネは農業という事業や自ら為して来た仕事の後継者というより資産としての農地を継承させたいというものに過ぎないのではないか。

 こんな反論がある。競争の中で落ちていく人々を誰が救うのか、と。しかし、農業政策で農業、農村のすべてを解決する時代は終わった。そして、農業経営者たちこそが、現代の市場社会と歴史に対する高い倫理性を持ち、顧客に必要とされながら自らの事業を成り立たせ、人々に仕事を与え、新しい農村文化を作り出していく責任を背負っているのだ。

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