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座談会 農業の周辺から農業と自分自身を語ろう

後編 啓蒙主義と分業主義がもたらした弊害

藤田氏は、昭和50年から有機農産物の産直グループの設立に参加して以来、農業と食べ物の問題に取り組み、同時にそれを市民運動から事業として展開させてきた。一方、小松氏は千葉県農業大学校の教官をする傍らで各種メディアや講演、全国各地の地域活動において、農業青年たちに自立を働きかけてきた、文字通り体を張った教師である。この二氏とともに農業の周辺にいる農業関係者として、農業、農業界、そしてそれにかかわる者としての自分自身について話してみた。世に語られている農業問題というものが、実は農業関係者問題なのであり、その自問なしに農業問題は語れないからである。
藤田氏は、昭和50年から有機農産物の産直グループの設立に参加して以来、農業と食べ物の問題に取り組み、同時にそれを市民運動から事業として展開させてきた。一方、小松氏は千葉県農業大学校の教官をする傍らで各種メディアや講演、全国各地の地域活動において、農業青年たちに自立を働きかけてきた、文字通り体を張った教師である。この二氏とともに農業の周辺にいる農業関係者として、農業、農業界、そしてそれにかかわる者としての自分自身について話してみた。世に語られている農業問題というものが、実は農業関係者問題なのであり、その自問なしに農業問題は語れないからである。

藤田和芳(大地を守る会会長)・小松光一(おびひろ農業塾塾長)・司会:昆吉則(本誌編集長)


伝統が伝統として健全化するために必要なもの


 小松 ぼくは、社会教育の仕事をしようと思っていた。別に政治運動をやっているつもりはなかったけど、何とか党じゃなくて、一人の人間としてにコミットしていくことによって社会が変わっていくような仕事がしたいな、と思って。ところがそこでもう一歩肺に落ちないわけですよ。自分の生活基盤からズレるわけね。生身の自分がいて、それが関係性の網の目の中で何を豊かにしていけるのか。自分と社会の関係で社会を変えていくようなリアリティがない。自信が持てないわけですよ。農業の近代主義みたいなものの矛盾を解決できないのですね。そういうことをやっているときに、大地と出会ったんですね。

 藤田 小松先生に出会うまでは、ぼくは啓蒙主義ですしね、もともとは。物事をいつも政治的に考えていたんだけど、小松先生に出会って、初めて民衆主義というか。生活に密着した新しい運動のスタイルがあるんだということがわかった。

 小松 それはぼくが大地から学んだものですよ。こんな百姓一杯いるんだ!と。ばくにはリアリティがなかったのですよ。これで逆に、「語られている農業問題」にリアリティがないんだ、ということを農家に気付かせることが自分の役割というか、農家の持っている幻想よりも、もっと大きな幻想みたいなものを提示するのが、自分の役割だと思うようになってきた。実はそんな人、昔いっぱいいたんですよ。渡り芸人みたいなね。

 かつては閉じた農村という生活基盤の中だけでも暮らしは成り立っていた。しかし手持ちの生活基盤だけでいいとなれば変化がない。溜まった水が腐るように、生活基盤そのものを絶えず更新していかなければ、伝統は因習になるんですよ。伝統が伝統として健全化するためには、水が入れ替わる、脳みそが入れ替わるようなシステムが必要なんです。

 かつての日本の農村社会には、そんな「風」を入れるシステムがね、ナンセンスというか、変なことが起きてもいいシステムがいっぱいあった。祭りや正月やお盆のときになると芸人がたくさん出入りするとか、そんなことが村に「風」を入れてきたと思うんです。それが明治30年代以降、全部閉じるわけです。そのかわりに出てきたのが啓蒙主義ですよ。啓蒙主義は一見「風」を入れるみたいなんだけど、そうではなかった。固定観念で凝り固まった農民をぐしゃぐしゃにして、自分で内発的に新しいものを出てくるようにする、それが「風」なんだけど、啓蒙主義ってのは、最後まで見せちゃうわけでしょ?

 昆 行政や農民運動家たちは、農民に考えさせず、彼らが答えを出してしまう。

 小松 とりあえずあんたがクジャクシャだ、ここまでいらっしやい、と。それは本当に農民たちの自発性を作ることにならない。つまり日本の農業運動は、芸能論の系譜で語られるべきだとぼくは思うわけですよ。そういう意味で、ばくも芸人なんだ。農民たちの中にバーッと「風」が入る、その「風」の持っているパワーと、おもしろみで勝負するしかないだろう。後は、「風」ですから、どっかに連れていくことはしないよ、と。それ以上やったら、俺はここまで来だのにどうしてついてこないんだ、ということになる。そういう意味では、社会運動家や農民運動家は、本当は芸人のはずなんだ。それが、単なる芸人なのに、俺がお前らを全部面倒みてやるぞ、となってしまう。それは正義のバブルですよ。そういう意味で、ぼくは自分で遊行講釈師と名乗っているけど、その役割は、しょせんみんな幻想でしょう、と語ることなんです。

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