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江刺の稲

合気道師範、佐々木将人八段

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第101回 2004年07月01日

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まだ、いつまで続くか自信はないが、合気道の総本山である合気道本部道場(東京都新宿区)に通い始めた。数週前の土曜の朝、朝八時に始まる上級者向けの稽古を最初はあくまで見学に行くつもりで紹介者に付いて行ったのがきっかけだ。
 まだ、いつまで続くか自信はないが、合気道の総本山である合気道本部道場(東京都新宿区)に通い始めた。数週前の土曜の朝、朝八時に始まる上級者向けの稽古を最初はあくまで見学に行くつもりで紹介者に付いて行ったのがきっかけだ。

 しかし、その紹介者は、道場の更衣室に入るとロッカーから自分の道着を差し出し「折角だから」と僕を誘う。周りにいた人々も「そうだ、そうだ」とそそのかす。中高年者たちとはいえ、四段、五段という高段者たちである。誘われるままに道場に足を踏み入れる僕こそ、わきまえの無いお調子者であった。

 紹介者に隠れるようにして道場の隅にいた。本当はそのクラスにいる資格など無いのだが、それは八段・佐々木将人先生の稽古だった。

 礼に始まり一通りの準備体操をした後も、先生の話が続く。張り詰めたような空気の中で行われるものと勝手に想像していた稽古は、予想を覆すものだった。先生の一言一言に皆が声を上げて笑っている。こんな言い方は失礼かもしれないが、実際、それは漫談といっても良いほどに面白おかしいのである。

 先生の稽古が特別であるらしいが、稽古のほとんどをこうした講話で終わる時もあるそうだ。高段者向けゆえの極意の伝授なのだろう。人々はそれを聞き逃すまいと耳をそばだてている。

 そして、佐々木先生が稽古を休まれると代稽古の先生が気の毒になるほど出席者が減ってしまうのだそうだ。

 話は様々な逸話や故事を引いての「気」を「合」わせることや「呼吸」そして「心の構え」。ところが、まったく合気道への予備知識の無い僕であっても、その話に一々うなずかされてしまう。それは合気道というより人や社会や自然の本質的理解の方法とそれに対する我々のありようを伝えるものであるからだ。

 見本を示す段になると、若い高段者が力任せに挑んでも七十八歳の先生はびくともしない。その間も笑いながら話を続ける。そして、ふっと体をかわすと大男の体が宙を舞っている。相手がわざと投げられているのではないか、といういかにも素人の疑問に「相撲取りが先生を持ち上げようとしてもびくともしない。合気道に試合は無いのだけど、我々では相手にならないですよ」と答えた人は五段である。

 ご存知の方には鼻白む解説かもしれないが、合気道とは、挑みかかる相手を力でねじ伏せることではない。「争って争わざる」と言うごとく、相手の「気」に己の「気」を「合」わせること。相手と己の「気」の勢いを合わせてゼロにすること。それを「入身」と「転換」の「体捌き」から生まれる技によって相手の暴力を制する武道である。

 そのための心と身体の鍛錬、そして技を会得するのが合気道であるらしい。先生は「技」よりも先に「心」であり「体」であると言われた。

 人に己を押し付けて通じず、そんな相手に苛立ち、その傲慢さに気付いて嫌気がさす自分。挫けて自らを見失うこともしばしばの僕にとっては、先生の言葉が身に沁みた。先生には「人生山河ここにあり」(マネジメント社刊)他多数の著書もある。

 しかし、先生の稽古が終わってから、紹介者たちによる親切な指導によって、今、僕は体中の筋肉が悲鳴をあげている。

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