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江刺の稲

歴史に身を任せ自ら足を踏出せ

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第21回 1997年02月01日

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どんな苦境の中でも確信を持って我が道を信じ、振る舞うことのできる人がいる。「待つこと」のできる人といってもよい。何物かへの強信者であったり、単なる愚か者であるからではなく、時代に身を任せつつも己れの「確信の道」を信じることのできる人である。
 どんな苦境の中でも確信を持って我が道を信じ、振る舞うことのできる人がいる。「待つこと」のできる人といってもよい。何物かへの強信者であったり、単なる愚か者であるからではなく、時代に身を任せつつも己れの「確信の道」を信じることのできる人である。

 本誌は創刊の辞で「土を信じる」という楽天主義を述べ、「夢は実現する」と断言した。「条件」ではなく「意志」こそが人の未来を決める、とも。それでこそ計画がたち、手順を考える根拠が生まれてくるのだ。

 しかし、気鬱の時があったり、思い通りにいかぬことが続いて気弱になることだってある。それが人間なのだと思う。

 荒唐無稽なことをしたり顔して喋る者に付き合うのはウンザリさせられるだけでなく、聞く方が気恥ずかしくさえなるものであることを承知の上で、少しだけのご容赦を頂きたい。

 自然、その一部としての人間の歴史とは、ピサの斜搭のように「傾いた(偏心した)らせん階段」のように展開していくものなのではないだろうか。

 自然も歴史も循環しているが元の位置に戻ることはない。らせん階段は上から見れば同じ円還を巡っているように見えるが、時間という縦軸の見える場所から眺めれば、一回転すると以前とは異なった位相に立ち入っている。

 そして傾いたらせん階段を延長していけば、やがてその傾きのために階段は倒れる。それが歴史の転換点なのだ。しかし、それは終末ではない。新たならせん階段の循環の始まりなのである。

 新しいらせん階段は転倒以前のらせん階段の中心軸の長さ(倒れた搭の高さ=歴史の一世代の時間の長さ)を半径としたより大きな回転径(世界の広がり)を持って回り始めるのだ。転倒と同時に回転軸の方向(歴史の方向性)も変わる。そして、なぜか転倒と同時に重力の向きも変わってしまうのだ。しかも、らせん階段の回転軸は以前の場合と同様に重力軸から僅かに偏心したものになっている。

 以前の搭を転倒させた重力のエネルギーは次の循環の初期エネルギーとなり、次に起きる搭の転倒まで回転を持続させる。歴史とはこの「らせんの循環」「転倒」「軸の転換」が永遠に繰り返されていくことなのではないだろうか。

 また、大きな循環はその中に無数の小さならせん階段を連結させて包み込んでおり、そこでも小さな規模での転倒と軸の転換が繰り返されていく。

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