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我々はそんな「偏心らせん階段」を登り続けているのではないだろうか。
時間が人の意志とは関係なく前へ進むように、人はそのらせん階段を下から追い立てられるようにして登るほかはなく、後戻りすることが許されない。らせん階段には手すりもない。押し合い圧し合いしながらの階段上りの過程で足を踏み外す者もいる。しかも、その階段はあらかじめに構築されているものではなく、何もない中空に人が足を踏出すことで新たな階段の一段ができていくのである。
中空に足を踏出せない者はその時点で居場所を失う。しかし、人や様々な生命が危なっかしく中空に足を踏出すのは彼らの意志であるかのようにも見えるが、元をただせば立止まることが許されていないのだ。それは「種」の遺伝子の中にあらかじめ刷り込まれた大いなるものの意志によってつき動かされる衝動なのであろう。我々は、否応もなく見る前に飛び続ける存在なのだ。
らせん階段が転倒する歴史の大きな転換点では動揺や混乱は避けられない。その中で新たなものが生まれ、逆に滅びゆくものもある。
そして、らせん階段の転倒とともに、人はそれまでとは異なる方向軸(歴史の軸)の、より大きな回転径(世界の広がり)を持つ、新しい階段を登っていくことになる。階段の転倒にともなう混乱がおさまり、安定した回転がはじまると、人は初めて新しい時代に生きていることに気付く。個人の成長過程も、社会や宇宙の歴史も同様なのである。
しかし、慎重に歴史と時代の変化を見つめれば、らせん階段の転倒は予測可能であり、また次の回転軸の方向がどちらに向いているのかも見当が付くものなのではないだろうか。
そして、自らの意志をもって目に見えぬ中空の階段に足を踏出す者(未来を築こうとする者)にこそ、次の一段があることが確認できる。未来は歩み出すことによってこそ見えてくるのだ。
しかし、歴史の転換を無視して己の立場に固執する者、長い歴史からすればほんの一瞬に過ぎない「今」を生きている者の経験にだけ依拠する者には、それは見えてこない。歴史の矛盾が極限までに積み重なった時に、今、持っているものをあえて捨てることもできる者が、歴史の階段から振り落されることもなく、幕間のピエロにもならず、次の未来へ踏出すことができるのだ。
そして多分、己に確信を持って生きられる人とは、自ら中空に足を踏出す人のことなのではないか。事業や商売のことだけでなく、人生のテーマとして踏出す人もいる。そのために困難を背負うこともあるかもしれない。しかし、彼こそ、誰にも評価をされなかったとしても、生きようと思った人生を歴史の中に刻みながら生きることのできる、真の「成功者」たり得る人なのではないだろうか。
時間が人の意志とは関係なく前へ進むように、人はそのらせん階段を下から追い立てられるようにして登るほかはなく、後戻りすることが許されない。らせん階段には手すりもない。押し合い圧し合いしながらの階段上りの過程で足を踏み外す者もいる。しかも、その階段はあらかじめに構築されているものではなく、何もない中空に人が足を踏出すことで新たな階段の一段ができていくのである。
中空に足を踏出せない者はその時点で居場所を失う。しかし、人や様々な生命が危なっかしく中空に足を踏出すのは彼らの意志であるかのようにも見えるが、元をただせば立止まることが許されていないのだ。それは「種」の遺伝子の中にあらかじめ刷り込まれた大いなるものの意志によってつき動かされる衝動なのであろう。我々は、否応もなく見る前に飛び続ける存在なのだ。
らせん階段が転倒する歴史の大きな転換点では動揺や混乱は避けられない。その中で新たなものが生まれ、逆に滅びゆくものもある。
そして、らせん階段の転倒とともに、人はそれまでとは異なる方向軸(歴史の軸)の、より大きな回転径(世界の広がり)を持つ、新しい階段を登っていくことになる。階段の転倒にともなう混乱がおさまり、安定した回転がはじまると、人は初めて新しい時代に生きていることに気付く。個人の成長過程も、社会や宇宙の歴史も同様なのである。
しかし、慎重に歴史と時代の変化を見つめれば、らせん階段の転倒は予測可能であり、また次の回転軸の方向がどちらに向いているのかも見当が付くものなのではないだろうか。
そして、自らの意志をもって目に見えぬ中空の階段に足を踏出す者(未来を築こうとする者)にこそ、次の一段があることが確認できる。未来は歩み出すことによってこそ見えてくるのだ。
しかし、歴史の転換を無視して己の立場に固執する者、長い歴史からすればほんの一瞬に過ぎない「今」を生きている者の経験にだけ依拠する者には、それは見えてこない。歴史の矛盾が極限までに積み重なった時に、今、持っているものをあえて捨てることもできる者が、歴史の階段から振り落されることもなく、幕間のピエロにもならず、次の未来へ踏出すことができるのだ。
そして多分、己に確信を持って生きられる人とは、自ら中空に足を踏出す人のことなのではないか。事業や商売のことだけでなく、人生のテーマとして踏出す人もいる。そのために困難を背負うこともあるかもしれない。しかし、彼こそ、誰にも評価をされなかったとしても、生きようと思った人生を歴史の中に刻みながら生きることのできる、真の「成功者」たり得る人なのではないだろうか。
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昆吉則 コンキチノリ
『農業経営者』編集長
農業技術通信社 代表取締役社長
1949年神奈川県生まれ。1984年農業全般をテーマとする編集プロダクション「農業技術通信社」を創業。1993年『農業経営者』創刊。「農業は食べる人のためにある」という理念のもと、農産物のエンドユーザー=消費者のためになる農業技術・商品・経営の情報を発信している。2006年より内閣府規制改革会議農業専門委員。
江刺の稲
「江刺の稲」とは、用排水路に手刺しされ、そのまま育った稲。全く管理されていないこの稲が、手をかけて育てた畦の内側の稲より立派な成長を見せている。「江刺の稲」の存在は、我々に何を教えるのか。土と自然の不思議から農業と経営の可能性を考えたい。
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