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旅の曲者

祭りが始まるとき

夏といえば祭りである。と言っても日本では、核家族化やコミュニティの崩壊などのせいで、祭りを支える素地は昔に比べると、すっかり弱体化してしまった感がある。新興住宅地の祭りなど、祭りとは名ばかりで、子供たちを引きつけようとアニメのキャラクター御輿みこしを作って、その主題歌を流しているなんてものも珍しくない。
 夏といえば祭りである。と言っても日本では、核家族化やコミュニティの崩壊などのせいで、祭りを支える素地は昔に比べると、すっかり弱体化してしまった感がある。新興住宅地の祭りなど、祭りとは名ばかりで、子供たちを引きつけようとアニメのキャラクター御輿みこしを作って、その主題歌を流しているなんてものも珍しくない。

 では、伝統的な祭りはどうかというと、こちらも観光と絡めた商業主義が鼻につくものが少なくない。商業主義が悪いとは言わない。だが、興ざめなのは見物客を意識した過剰なまでのサービスや演出である。美女によるパレードがあったり、関係のないライブがあったりと、見物客を楽しませるための過剰なまでのサービスの数々。

 たしかにイベントとしての祭りを盛り立てるためには、いまの若い人にも受け入れられるような「わかりやすさ」が求められるのは当然かもしれない。しかし、一方で、こんなに祭りがわかりやすくなっていいものなのだろうか、とも感じてしまう。たしかにイベント化した祭りは人を呼べるだろうし、大量の収益を得られるのかもしれない。

 しかし、プラス面の効果を考慮してマーケティングされたものを「祭り」と呼ぶのには、どうも抵抗を感じてしまう。というのも、本来、祭りとはコントロール不能であるところに、その魅力があった気がするからである。人間の合理的な意識や思考では図りがたい存在に、その場を託してしまう。それによって生じる予想しがたい事態を共有するというのが、祭りのもともとのあり方だったのではないか。

 そんなことを思うとき、きまって思い出すエピソードがある。フランシス・コッポラ監督が映画「地獄の黙示録」を撮影していたときの逸話である。ベトナムを舞台としたこの映画には密林に住む現地の村人たちが大勢エキストラとして出演している。ところが、撮影のスケジュールが、彼らの村の祭りと重なってしまい、その間、撮影を中断しなくてはならなくなった。

 俳優のスケジュールの都合上、撮影をあまり延ばすわけにはいかない。スケジュール調整を担当していたコッポラ夫人のエレノアは、祭りがいつからいつまで続くのか村人に尋ねた。しかし、どの村人に聞いても「わからない」という。エレノアが、そんなのはおかしい、どうして自分たちの祭りなのに、いつ始まるのかわからないのかと食い下がると、村人は「祭りがいつ始まるかは、わからない。祭りの時はむこうからやってくるのだから」と答えたという。

 彼女がその意味を悟ったのは、それから数日後だった。その晩、村人たちの間に、いつもと違う気配が広がっていた。潮がひたひたと満ちていき、あたりの空気が濃密さを増していくような感覚だった。そして、その晩、遅く、祭りは唐突に始まったというのである。

 誰かが今晩、祭りを始めるからと合図したわけではない。村人たちはひたすら、いわば時が満ちるのを待っていた。そして祭りに参加する村人たちの気持ちと場の雰囲気がひとつになったときに、祭りはおのずから始まったのだとエレノアは述べている。

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