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旅の曲者

秋の夜、月を見上げて

 そこで手元にある画集を広げて、そこに描かれた月を観察してみた。すると、面白いことに多くの日本の画家の描く月は、西洋の画家の描く月よりも大きく描かれているのに気が付いた。西洋の画家の中にも、月を大きく描く画家がいないわけではない。だが、こと伝統的な絵画となると、日本の絵師の手になる月は、異様なまでに大きい。それは日本の伝統の中で月の占めている存在感が西洋よりも大きいからなのだろう。

 画家だけでなく、日本人は概して月という天体を無意識のうちに大きく見てしまう傾向があるようだ。どこかで読んだのだが、日本の子供と西洋の子供に月の絵を描かせると、日本の子の方がより大きく月を描くという。一方、星の絵を描かせると、西洋の子供の方が大きく描くそうである。光学的なリアリティよりも、むしろ文化的なフィルターを通した印象のリアリティを通して、人は世界を見ているのだ。

 同じことは富士山の絵についてもいえる。明治時代、浮世絵に描かれた富士山に魅せられて日本に来た外国人が、実際の富士山を見て、浮世絵との違いに戸惑ったという。何が違うかというと、その傾斜の角度である。実際の富士山に比べて、北斎の描いているような浮世絵の富士山ははるかに急角度で上にそびえ立っている。浮世絵ばかりでなく、銭湯の壁に描かれる富士山にいたっても、その傾斜はひときわ急峻である。このことは太宰治も『富嶽百景』の中で指摘している。

 「広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。……北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士をさえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと拡がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない」

 日本人である我われは、月という天体は大きくあってほしいというイメージや、富士山はすらりと高い山だというイメージを実際の月や富士山に投影して風景を見ている。それは現実の歪曲というより、自分たちの心の有り様の素直な現れである。だが、自分で写真を撮ってみるまで、なかなかそのことには気付かないものだ。

 試しに、紙と鉛筆で富士山と月を絵に描いてみよう。一説には、描かれた月は人間の無意識の領域の大きさを、山の高さは理想を象徴するともいうが、そんな心理学的解釈にはあまりとらわれずに、心の中にある月と富士山の原風景を見つめてみる。秋の夜長には、そんな戯れも風雅である。

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