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新・農業経営者ルポ

面白がって生き、失ってこそ与えられる道

経営の基本理念を生んだボランティア活動

 荻原が就農したのは1968年。普通高校から自動車整備の専門学校に進み、卒業した年の春だった。

 やがては農業を継がねばならないと覚悟はしていた。でも、当分の間は勤め人の暮らしをしたいと考えていた。自分で自動車関係の会社に就職も決めていた。しかし、父親は就職を許さなかった。親子喧嘩になった。結局は荻原が折れて家に入ったが、不満だらけの毎日だった。

 当時の農家には、息子に給料を払うなどという考えはなかった。世間では働けば給料をもらえるのが当たり前なのに。父から「金が要るなら言え」と言われてもらうお金が嫌だった。不自由をしたわけではない。でも、それは一人前の大人の働き方ではないと思った。

 当時の荻原家は水田が1・8ha、畑が約2ha。経営の中心は薬用人参で、それだけでも300万円、市況によって500万円位にもなった。養蚕と1・8haの水田もある。暮らし向きは豊かというべきものだった。

 父や農業に馴染めないまま、暇さえあれば家を出て仲間と遊んでいた。酒も飲まない荻原の「遊び」とは、青年団やボランティア活動だった。

 24歳の時、さらに社会活動に目覚めさせる転機が訪れた。「信州青年の船」に応募して、17日間、香港、フィリピン、返還直後の沖縄を廻る旅に参加したのだ。その事後活動として始めた、小中学生を集めての子供会活動「竹の子の会」は、荻原のボランティア活動に対する情熱を燃え上がらせることになった。

 子供会活動とは子供たちの中でのリーダー育成。仲間とうまく遊べない子供を集めて一緒に遊んであげる。彼らの親代わり、兄代わりをしてやることだった。

 その活動を始めようと言い出したのは荻原自身ではない。3年前に癌で亡くなった友人である。自分にとって尊敬する生涯の友だった。一緒に青年の船に乗った彼は、建具屋を自営する職人であり、戦争で父親を亡くしていた。その彼がこう言った。

 「俺はオヤジを知らねえ。それで切ない思いもした。でもな、オヤジがいても、オヤジにオヤジの役割をしてもらってねえ子供もたくさんいるよな。だから子供会を作ってオヤジの代わりができたらいいと思っているんだ。手伝ってくれるか?」

 自らの心を燃やす場所を求めていた荻原にとって、それは人生の導火線に火をつけるような言葉だった。

 「俺にもできるのか?」

 「できるところじゃないよ!」

 それが始まりだった。この誘いがなければ、以後のボランティア活動も現在の農業経営者・荻原慎一郎も存在していなかっただろう。

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