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新・農業経営者ルポ

面白がって生き、失ってこそ与えられる道

 そんな荻原が、そろそろ本格的に農業経営を事業化しようと思った矢先の事故だった。

 入院は半年に及び、神を呪った。

 噂は一気に村に広がった。地権者たちが頼み先がなくなることを嘆く言葉も伝わってきた。

 既に両親は70歳後半。子供は長男がようやく小学5年生になったところで、元気に働けるのは妻の政伊だけだ。ついに荻原は言った。

 「百姓やめるか。土地を返して2~3町歩の水田なら二人でできるよ」

 言った自分が悔しくて泣けた。でも、かつて子供会の仲間でもあった政伊はそれに笑って答えた。

 「馬鹿言ってんじゃないわよ。死ぬわけじゃあるまいし。手が一本なくなっただけで、まだ右手があるでしょ。今に、アンタなら放っておいても右手一本でやるわよ。できないというのなら私がやる」

 その言葉で吹っ切れた。むしろ、昔以上に農業をやりたくなってきた。うまくいくかどうかは別にして、その気になってやってみて、駄目なら駄目でしようがないではないか。

 さらに、事故直後にボランティア活動を一緒にやってきた若い友人が「荻原さんのところを手伝いたい」と言ってきてくれた。31歳の彼は、農大を出て勤めに出ていて、やがては農業をやりたいと思っている人だった。でも、荻原の経営は10ha程度。家族経営のサイズだ。願ってもない申し出ではあったが、まだ未来に確信を持てないでいた荻原は、二度までは断った。

 「10haで人を入れたらうちもやっていけない。もう一度考え直せ」

 しかし、彼の意思は固かった。

 妻の政伊と若い友人が荻原を立ち直らせた。そればかりでなく、手を失えばこそ雇用が必要となり、それを実現するためには規模拡大を進めなければならない。荻原は作業者としてではなく、経営者としての本当の役割を果たすことになったのだ。

 若い友人は、荻原が退院する前に会社を辞め、農場で働き始めていた。彼が、荻原にとっての第一号の社員である。彼はそれから5年間勤め、今では自分の家に戻り農業経営をやっている。

 そうと決めたらベッドの上から指示を出し、地権者たちに心配は要らないと電話し、農機具屋を病室に呼びつけて機械を注文した。従来の保温折衷育苗は手間がかかるので、ハウス育苗に切り替えることにもした。そのためのハウスも必要になった。

 退院すると、以前より意欲的に動き回った。周りの人も反応してくれ、農地も集まった。

 そんな荻原の下には、若者が集まってくる。息子たちも成長した。95年、念願だった法人化を実現。当時の名称は(有)荻原だったが、06年に時代に合わせて現社名の(有)信州ファーム荻原に変更した。

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