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農業経営者ルポ

後継者は誇りと夢と能力ある者に

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第24回 1997年08月01日

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駒谷信幸さんの学歴は中学卒である。小学2年から父の手伝いをしていた。もっと学校に行きたいと思ったが、よその家にいき、何もしてやれないのだからと妹達は進学させても、父は駒谷さんにそれを許さなかった。
 駒谷信幸さんの学歴は中学卒である。小学2年から父の手伝いをしていた。もっと学校に行きたいと思ったが、よその家にいき、何もしてやれないのだからと妹達は進学させても、父は駒谷さんにそれを許さなかった。高等小学校2年まで学校に行ったという父は、

 「新制中学3年まで行ったのだからお前は自分より1年余計に勉強した。それ以上は必要ない。自分が教えたこと、これまでに学んだことの全てを実行できて、それでもなお足りないと思うのならその時、俺を恨め」と駒谷さんに言ったという。駒谷さんの父親は、どんな知識もどんな理屈を語れても、実行の無いものを評価しようとしなかった。限られた人生の中で何を知るかではなく何を行なうかこそが肝心なのだと伝えたかったのかもしれない。

 中学生の駒谷さんに理解できる理屈ではなかった。そんな父に反抗し、駒谷さんは家を飛び出した。極道の世界の入口にいた。でも、ある事件をきっかけに、そんな暮らしと決別した。

 父に農業をやれと言われて飛び出した自分であったが、その時には家の農業をすることしか選ぶ道はなかった。駒谷さんは、自分を律することができず無為に遊んでしまった数年間をその時に恥じた。自分が机を並べていた同級生たちは自分よりずっと先を歩いているように見えた。そして、何も知らず、何もできない自分がそこにいた。言葉通り自分を最低の人間だと思った。

 しかし、駒谷さんはそれで卑屈になることはなかった。むしろ、自分の無知や無力さに気付き、そんな自信のない自分であればこそ、誰の言葉にも耳を傾けることができ、教えを乞うた人の話しを謙虚に聞くことができるようになれたのだと述懐する。

 就農してから数年後、23歳の駒谷さんは、空知支庁に新設された空知農業学園へ推薦されて入学した。将来に可能性のある後継者39人が各地から推薦された。冬の合宿研修と通信教育で3年間にわたって農業を学ぶ学校だった。

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