ナビゲーションを飛ばす



記事閲覧

  • このエントリーをはてなブックマークに追加はてな
  • mixiチェック

農業経営者ルポ

後継者は誇りと夢と能力ある者に

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第24回 1997年08月01日

  • この記事をPDFで読む
    • 無料会員
    • ゴールド
    • 雑誌購読
    • プラチナ
 ひと冬の寮生活と3年間の通信教育を経て卒業した農業学園の卒業論文に、駒谷さんは15haの農地を30haに規模拡大する夢を書いた。当時の北海道の平均耕地面積は5ha、30haは夢の様な大規模経営だった。

 昭和41年、24歳で結婚し、父から15haの農地を継承すると、弟の克明氏とともに農事組合法人駒谷農場を設立した。二人が農地を分けて小さな城の主になることより二人して大きな城を作ろうと話しあったのだ。

 それからの駒谷さんは規模拡大に邁進した。しかし、条件の良い田を買う金など無かった。あったとしても誰も譲ってくれる時代ではなかった。駒谷さんは、誰も手を付けない傾斜のある農地や沼の様な田、田の中に20cmもある木が生えているような所を手に入れては自分の手で土壌改良し基盤整備した。しかし、駒谷さんはその田を売った。そのお金でやはり条件の悪い、でも前より大きな農地を買って、面積を広げていった。駒谷さんの規模拡大とはその繰り返しだった。何の補助金を使うわけでもなく、自分の金と汗と技術で農地改良を進めるのだった。結果として駒谷さんの規模拡大は地域の水田改良をすることにもつながっていったわけだ。

 駒谷さんは、自然にも歴史の流れにも人は逆らうことはできない、という。その流れに身を任せつつ、自分の役割を自覚したものが思いを遂げられるのだ。駒谷さんは農業という自然を利用する仕事、自らの手による土地改良を伴う規模拡大の経緯を通してそれを学んだと話す。


風土を活かし常識から自由になる


 36歳の時、駒谷さんは「北海道土を考える会」の第2回目の会合に初めて参加した。駒谷さんと同郷で当時の会長である宮北健一郎氏に誘われて参加したものだった。(土を考える会については本誌17・18号の座談会をご覧いただきたい)。

 その会は、力のある経営者たちが規模拡大への夢を語り合う場でもあった。そして、経営作目は異なっていても、集まる人々には共通する理念があったようだ。彼らがそこに集ったのは、規模や売上を競うことではなかった。「土」と「経営」を考えることだった。彼らにとって「土」とは「経営」そのものであり、「経営」の本質とは「土を作る」こと「農地を改良する」ことだった。規模拡大もその前提でこそ語られることだった。同時にそれは彼らの「生き様」を語り合うことでもあった。彼らは農業経営者としての自負を競い合い、励まし教え合う仲間だった。

 当時、駒谷さんはすでに水田50ha、畑20haの計70haまで経営規模の拡大を達成していた。そこで出会った人々が語る経営規模やその経営内容、そしてその理念を聞いて駒谷さんは圧倒させられた。

 なんと世間知らずの自分がいるのだろうと思った。人一倍鼻柱の強かった駒谷さんではあったが、自己紹介の時に

 「長沼の駒谷です」と、うつむいて名前をいうことしかできなかった。

 小さな地域の中で天狗になっていた自分を見つけ、そして活を入れられた駒谷さんの第二の飛躍がその時始まった。

関連記事

powered by weblio