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農業経営者ルポ

後継者は誇りと夢と能力ある者に

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第24回 1997年08月01日

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 彼らが語る経営への夢や理念は、そのまま駒谷さんのものだった。そして人生のテーマもそこにあった。

 「1tの収穫をしたのなら同じだけの有機質を戻せ」「農業は自然を支配し加工することではなく、自然に逆らわず利用させて貰うこと。常識にとらわれず風土を活かせ」と語る駒谷さんは田の改良の原点は堆肥と客土であると考えている。

 また、駒谷さんは自分の水田への堆肥調達のために、都市化に追われても養豚家として生きたいと望んでいる後継者に、無償で土地を提供して経営を援助してた。家の近くで養豚と稲作をやっていて離農した農家を駒谷さんが居抜きで買上げ、それを彼に提供したのだ。やがて、その後継者も養豚組合の組合長になり、ハムメーカーに生ハム専用の肉として相場より高く売れるような生産者に育った。

 この逸話は駒谷さんの人間としての懐の深さを示しているが、駒谷さんは「水田に大量の堆肥が欲しい者にとって、近場にいる養豚家は宝です。堆肥の一番の問題は輸送コスト、彼に協力することは自分の経営の大きな資産を作ることなのであり、そこに農業経営発展の土台がある」とあっさりいう。

 規模拡大のために土地改良屋になってしまう、堆肥を求めて養豚家を自費で誘致する等、駒谷さんの経営手法や経営戦略は人々の常識を越えている。

 様似町に牧場を作る前史もユニークだ。減反をきっかけとした水田での飼料作が始まりだ。昭和45、46年だった。転作した水田に牧草を作ると収穫の最中から酪農家が買いに来た。しかし、手間の割に値段が合わなかった。そこで、牧草を作った水田に雄ホルスタインを買ってきて放牧してしまうことにした。収穫の手間は無くなったが、収穫しないと奨励金は出ない。もう一つ旨味がない。そこで、種を付けた妊娠牛を売ることにした。しかし、駒谷さんには牛に関する知識もないし、これから勉強したのでは間に合わない。そこで、帯広畜産大学を出た人に頼んで見て貰うことにした。市場へいって牛を見て、選んでもらって1頭について1万円払うことにした。その人にしたら週に1度市場にいって牛を見るだけで金になる。そして駒谷さんにとっては最高の技術が手に入る。見て貰った牛を春に買って種付けする。この仕事は儲かった。府県の経済連の人が酪農家に頼まれて買いに来るのだ。

 しかし、それも5年ほどで止めた。原因は稲の防除だった。当時は一斉防除・徹底防除という掛け声で農薬散布が激しく、それに文句を言っても無駄だと思ったからだ。

 そこで考えたのが林間放牧による肉牛生産だった。牛肉の消費はこれからも伸びると思ったからだ。日本では誰もやっていないことだった。

 「後から一流の人に追い付こうと思っても無理。それなら、その人がやってないこと、やれないことをする。そして日本の常識は世界の非常識でもある」

 それが駒谷さんの発想の原点だ。

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