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農業経営者ルポ

我れ、いまだ木鶏ならず

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第25回 1997年10月01日

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 一代の名横綱双葉山は「いまだ木鶏ならず」と君主に答えた家臣の言葉を借りて「まだ自分の強さは本物ではない。そして自分は木鶏たることを目指したい」と安岡正篤氏に伝えたのだ。

 山田さんは、農業も農業経営者自身も、社会の中でこの木鶏のような存在になるべきであり、それを目指すべきだと考えている。


農業に新しい服を着せる


 農業がこれまでの延長線上にあるものだけを追い求めている限り未来がないということは、もう誰の目にも明らかである。それは農業経営者からすれば「農業や農村はこうでなくてはいけない」という建前や常識論から自由になれることでもある。であればこそ、今こそ何のためらいもなく自由に振舞えばよいという考え方もある。しかし、山田さんはそれだけではないという。

 経済や経営と言うのはお金の流れであり、血液の流れと同じなのだから、それを止めたら生きてはいけない。飯が喰えなければ何を言っても始まらない。困難があっても経営を成り立たせていくために経営才覚を働かせるのは経営者としてあたりまえのこと。それを前提にして山田さんはこういう。

 「どれほどの科学や技術が進もうと、農業が自然の摂理を学びながらする人の営みであるという原則は変わりようがない。現代の右往左往の後に人の世の形は新しい装いで自然の摂理に立ち戻っていくのだ。今、日本の農業界はその生みの苦しみの中にいるのであって、農業経営者たちはそんなに悲観する必要もないし、道を見失うべきではない。知識だけではできない自然の摂理に従いながらする農業という仕事に携わって、そこから学ぶことができるのだから。農業経営者たちはむしろ今こそ人格を高め、人が生きるための、そして人として成功するための原理原則を学ぶ時、それを我々は試されているのではないか」

 先進国である日本であればこそ、農業を単なる作物生産業としてのみとらえるのではなく、自然と人の社会の間に立って生産し、循環の中で自然を利用しつつ人を癒していく、そんな新しいビジネスとしてとらえていく必要があるという。そして、

 「今回の米作り農家に降り掛かっている嵐は、新しいものを創造するために、既存の弊害を取り除いて行くためのステップであると考えるべきである」と。

 さらに山田さんは、

 「いくら弊害を取り除くといっても失ってはならないものはある。成功するための原理原則とは、人間が生きていくための原理原則として語られてきたことを守り受け継ぐことではないか。ならばその哲学だけは失ってはならない。それをわきまえながら、その哲学を継承するためにこそ、今は農業に新しい服を着替えさせていかねばならない時なのだ。原理原則にどんな服を着せるかは、その時代背景によって変えていく必要があるのだろう。でも、何時の時代でも肝心なのはあくまで原理原則なのであり、服の流行に惑わされてはいけないのだ」といった。

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