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農業経営者ルポ

経営に体裁の良い玄関は必要ない

  • 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則
  • 第26回 1997年12月01日

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ニンジン栽培30haを目指す


 瀧島さんは昭和15年生まれの57歳。今年からご子息の敦志さん(25歳)が勤めを辞め、後継者として戦力に加わった。

 瀧島さんが農業を始めたのは28歳。奥さんと結婚して瀧島家に婿入りした時からである。瀧島さんの実家も大きな農家だが、農業を手伝った体験はなかった。結婚と同時に、高校卒業以来勤めていた農機販売店の仕事から農業に、ゼロから転職したようなものだった。

 結婚した当時の面積は3ha。現在の自作地は4.5haだが、瀧島さんはニンジン栽培30haという経営計画を持っている。今なら面積を広げようと思えば近隣に幾らでも土地の貸し手はあるのだ。

 農家になって最初の仕事はサツマイモ作りだった。大栄町はサツマイモの村なのだ。しかし、農業を始めて1、2年目の昭和42、3年に、瀧島さんは基幹作物をサツマイモからヤマトイモに換えた。

 大栄町のサツマイモは古くから名前も売れていたし、高く売れるブランド品でもあった。しかし、瀧島さんは産地ブランドだけで優位性を持ち続けることの将来的な難しさを感じていたのだ。

 ヤマトイモは儲かった。当時は種代も安く、高くも売れた。皆が始めるようになったが、やがて、大きく作れる人だけが残り、20a、30aの人は消えていった。瀧島さんは最大3.2ha位まで拡大した。そのために瀧島さんは北海道のメーカーから2畦のポテトプランタを購入し、自らヤマトイモの植付機に改造して利用したりもした。トラクタ用の2畦プランタを使うことで植付け深さや条間を均一にしてヤマトイモ栽培の質を高めるためだった。もちろん省力効果も大きかった。

 ヤマトイモを通して市場との付き合いが始まり、量販店や卸は何を求めるのか、農業経営の安定化にとって何が必要なのかも見えてきた。大規模化を目指す限り、品質の高さだけでなく、通年出荷できなければ市場で一定の地位を確保することはできないことも知った。

 生産者の立場だとヤマトイモではそれは難しかった。また、単価的には悪くはないが、資材費や種子代等の他、労力面など生産コストが大きくなっていた。

 そして始めた現在のニンジン専業経営なのだ。今から10数年前のことだった。ヤマトイモ時代の信用から市場も協力してくれて売り先を探してくれた。

 勉強もしたし、他産地からも学んだ。でも、何より土を作ること、いかに作物を育てる条件としての土、畑、播種床を整えるかが肝心なのだということを、作り続ける体験の中から学んでいった。瀧島さんは、土作りは経営のスタート地点なのだと考えている。その上にこそ、播種機その他の試行錯誤があるのだと。

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